批評:Dr.ストレンジ
久しぶりに書きたいので書きます。Dr.ストレンジ。
劇中執拗に、ドクターなのかマスターなのかミスターなのかにこだわりを見せるDr.ストレンジでございます。もちろん毎度のように、ネタバレありで、この記事を読む人は既に映画を見たという前提でお願いしますね。
で、
なんかやたらアッチ(海外)で売れているらしい&映像美?がすごいってことで、まあそれなりに期待もあって見てきました当日に。
結論から言うと、映像技術パートと新しい世界観の導入に力を入れ過ぎたMCUは、結果、一番大事な一人の人間のストーリーテリングをもの凄くおざなりにした作品をたたき出してしまった。って感じですな。
巷でのストレンジ先生の評判としては、さすがMCU、映像技術がすごい、的なことはまあどこにでも書いてあってよく見ますが、言ってしまえばこれ、
それ以外は、あとはどうでもないつまらん映画だったと言う事ですよ。
もちろん細部に至るまでディズニーやエンタメならではの小粋な、ちょっと笑える演習が張り巡らされていて、それなりに笑えたりもして楽しめる...
......気になったつもりにはなれる映画です!!!
だが、待て!!!!
ヒーロー映画の核はそこに非ずでしょーが、アナターーーーー!!!
ね。
久しぶりの(でもないけど)、マーベルヒーローの単独作品一作目の映画なんですよ。ストレンジ先生は。
アイアンマン、キャプテン、ソー、アントマンとかまあ色々ありますけど、どの映画もきちんとただの一人の「おっさん」の成長をきちんと描いていたではないか!(きちんとの重複)
言ってしまえばヒーロー映画の一作目っていうのは、ホントただ「おっさん」が人間的に成長するだけで、その中にいかに魅力や面白みのある展開を作れるかってことだと思うんですよ。
だからその「おっさん」がどんな超人的力を手に入れるだとかアーマーを手に入れるだとかは、言ってしまえばただのおまけにすぎないわけで。(言ってしまえばの重複)
それに関してはDCのスーパーマンや懐かしダークナイトのバットマンだってきっちりやってくれてる話なんですよ。逆に言えば、そこさえしっかりやってくれれば、こっちだって気持ちよく「ワー、あのスーツかっこいい〜、ウフフ!」って楽しめるんだからね。
それを今回、あろうことか、天下のマーベル大先生が、
全然「おっさん」描けてないジャンけ!!!!!け!!!!!
主演がカンバーバッチだとか、映像技術によって魔法の表現がとか、そういうことじゃないでしょうよ本来見るべき部分って。
一つ言っておくと、「そんなん私どうでもいいんで、ただイケメンオジサンがバトルしてスッキリしたいだけなんす」っていうスットコドッコイは速やかにこの記事から退出してください。
というわけで、「Dr.ストレンジ!」とかいう以前に、ただの医者のスティーブンストレンジというキャラクターに全然馴染めないまま話は進んで行き終わってしまった感じです。
ざっと言うと、
・まず冒頭での主人公の高慢さ自惚れの描写が甘い→なので後の改心した感が別にどうでもいいすけどくらいの感想になってしまう。
・そしてストレンジの登場の仕方(音楽的演出)がアントマンと同じ。(音楽がイケイケだったので)イケイケ感で押してくるキャラなのかと思ったらそのあと全然そんなでもないし。(ちなみにアントマンはライトなキャラ設定だったのでその音楽演出は良かった)
・さっさと事故りすぎで全然展開に自然さがない。早く話し進めたい感がすごい。
・「目覚めよ!」ってところでなんかよくわからん世界に吹き飛ばされてるシーンなど、何カ所かのシーンがただただクソコラに見える。多分これは大真面目にやってるんだけどまあまあ笑えちゃう感じになっている。
・ストレンジの魔法覚醒時を全く描かない(これが一番の罪悪!!!!!!)。結局、エンシェントワンが才能のせいにしてるので、結果才能でヒーローになれたと言っても過言ではない。さらに足せば、魔法のマントもなぜかストレンジを気に入る。これもなんかどさくさに紛れて消化されているイベントである。結論、ストレンジは努力とかはしたけど、そもそもセンス(才能)がめちゃあったのでヒーローになれた、という映画になっている。こんな奴のどこに共感すれば良いのか謎。
・ストレンジだけでなく、モルドも最後悪者になるための布石が弱い。
・結局、魔法の概念とか諸々の状況が今何これ?どういうことってシーンが多くて(字幕で一回見た限りでは)、結局映画終わった後も魔法ってなんやねん?ってなる。
・ストレンジの手はどのタイミングでどの程度使えてるのか一切不明。
・マッツミケルセン別に悪い奴に見えない。大切な人を亡くしたとか言ってたけど、そこもちゃんと描くべき。メインヴィランとして最低の扱いを受けている。最も魅力に欠けるヴィラン間違いなし。
はい。とりあえず思いつくだけでこんなもんでしょうか。
結局ベネとマッツとMCUの名前だけで売れたんじゃねーか感が、死ぬ程否めない映画です。
えー、最後になりますが、いちいち戦闘後に病院に運んで手術して...っていう流れはバカっぽくてとても好きでした。
でもMCUは繰り返しの表現のスマートさをもう少し頑張った方がいいかもしんないす。ドゥマムゥのとこも込みで。
で、一番言いたいのは、今回主人公が医者であり、彼が人(敵)を殺さない(だか、殺したくない)って強く言ってたので、そこ今後きちんとやってねってことです。
本作で彼は多分一人殺しましたが、そのあとは守りに徹してたはず(マッツはおいといてね)。でも反して最近のアベンジャーズさんたちはぶっ飛ばしまくってるじゃないすか。なんならキャプテンなんて戦争時代を生き抜いてるから殺しまくりだよね。
そのグループの中に入るんだか入らないんだかは知らないけど、共闘は絶対することになるんだから、今後の作品でその辺のストレンジの扱いが適当だったら本当に許さんからな!!!!MCU、おい!!!!!
でな感じで「Dr.ストレンジ」でした。
最終感想、
「見なくて良し!!!!」
批評:TOKYO TRIBE
呼ばれて飛び出てTOKYO TRIBE二回ほど見てきました。
かつてこれほどまでに私を呼んでいた映画があっただろうか。
そう!
時代は、バトルラップミュージカル!
これが全てであり良くも悪くもここに帰結する作品でありました。
まあ結局クソだったけど。
舞台はTOKYO、地区ごとに争うトライブたちの一夜の出来事を描いた作品。
おそらく今後もなかなかされることはないであろうラップミュージカル。
とりあえず敷居が高い、というわけではないのだが、とにかくストライクゾーンが狭そうであることは確かか。園子温っていうブランドで見に来る人と、「お前何年ぶりに映画館なんて来たの?」みたいなスケボーやってそうなダボダボの服着たニーチャンネーチャンたちが、少ない座席の半数を占めていました。
ミュージカルと監督直々に発言するだけあって、物語は基本的にほぼずっと音楽とともに語られていくわけです。
褒めるべき点としてはまず、曲数が多いこと。ほんとうにずっと歌(というかラップ)とともに進行していくこの映画。そんじょそこらの「アナと◯の◯◯」なんかよりもずっと音楽に徹している姿勢に関しては、ワケの分からないバトルラップミュージカルを追求し続けている感じがしてとっても良い感じ。
出てくるキャラクターも一癖ある奴らがたくさん出そろっていて、特に練マザファッカーとかおいしすぎ。
ただ、こいつらの空っぽ具合が本当に目に余る。キャラが基本空っぽ。
きっと原作があるから本当はきちんとしたそれぞれの人間性や深みがあるはず、と信じたいところではあるが、とにかくキャラクターが浅いと感じた。
私的な話を混ぜて本当に申し訳ないけど、俺の作る作品に本当に似てるね!
その場のテンションや物語の流れに応じてこれと言って輪を乱すことも無く後半で突然超団結し始めるトライブたち。お前らのソウルはどうした!会ったらすぐ殺し合いの精神はどうした!もっと揉めろよ!本当は仲良しかよお前ら!
つーわけで感情移入なんてこれっぽっちもできない。
主人公のメラに関しても、本編でずっと海を執拗に敵対視するんだが、その理由が海の方がメラよりチンコがデカいから、というもの。ふざけるのも大概にしろくそったれ。
そんなクソ下らない理由のために人生の二時間を奪われた私×2。
メイン二人以外のキャラたちもひどいもんで、なぜ存在するのかわからない奴らだらけ。んでそいつらの量がとにかく多いもんだから、もうどうしようもないし物語の最後も収集がつかない。
メラ・・・ラッパーじゃないにしてはわりとマシなラップを展開。チンコのサイズにこだわって東京をめちゃくちゃにする。実は根は素直っぽい(ラストの発言より)。ただ荒っぽい役を演じているだけなので人間性とか全く浮き出てこない。くそキャラ。
海・・・典型的な博愛主義の「良い奴」。役者ではなくラッパーが本職なのでラップは上手いが演技は微妙。ただ良い奴を演じているだけなので人間性とか全く浮き出てこない。くそキャラ。
ブッバ・・・東京を牛耳る竹内力。オナニー中毒。演技がひどい。見たらわかる。ひどいと形容するより他に無い演技を見せつける。おそらく本人のせいではない。演技指導と演出をつけた人間が悪い。イカレた奴というそれ以外そいつを説明することができない程中身空っぽな役なので人間性とか全く浮き出てこない。くそキャラ。最後本当に適当に死んじゃう。これも酷い。
ンコイ・・・と言う名の窪塚。やはりイカレているがこいつの方がイカレ演技は上手い。しかしそれを超えるものは無い。そしてラップは下手。何故か窪塚が歌うシーンだけやたら録音が下手。なんでいるのかわからないキャラ。時計仕掛けのオレンジの部屋に住んでいる。
染谷くん・・・ストーリーテラーだけどラップが下手。それこそ中身の無いキャラ。
ヨン・・・こいつの存在が一番わからん。絶対何か意味があるはずなんだが全くわからない。格闘少年。演技は下手。どういう原理で行動しているのか全く掴めない。スンミに拘る。
スンミ・・・多分ヒロイン。おっぱいが見れる。新人女優らしい。演技はうまくないしラップも下手。格闘が良い。全ての元凶的存在。物語的には重要キャラクターであるが、人間性の掘り下げがやはり超絶浅い。特に逃げ出してくる理由となるシーンの薄さ等。
テラさん・・・という名のただの佐藤隆太。本当にただの佐藤隆太。みんながイメージしている佐藤隆太。あの佐藤隆太が殺されたんだぜ?俺らが立ち上がらなきゃ!みたいなテンションでトライブは団結する。原作ではちゃんとしたキャラらしい。本当に佐藤隆太の起用はやめた方が良い。ただの佐藤隆太。
エレンディア・・・叶美香。尋常じゃなくおっぱいをもみしだかれたりしてるのは必見。デカい胸はああやって揺れるんだなって本当に勉強になる。キャラもクソもない。
こんな奴らしか出てこない酷い映画である。バトルラップミュージカルと銘打つのであればまずラップミュージカルにおいては成功している。しかしバトルラップのシーンが一切無い。高校生ラップバトル大会みたいなやつのほうが遥かにちゃんとバトルしている。なのでこれはただのラップミュージカル。もしくは、格闘シーンはあるのでバトル&ラップミュージカルなら納得できる。
しかし結局上手くいっている、というか面白い試みなのはそこだけで、一瞬おもしれえこの映画!って気分になりかけるものの、終わったあとに思った以上に印象に残らない。そんな映画に仕上がっている。
そりゃあもちろん、人間とドラマがないからだもん。当然である。
そしてそんなクソ映画をさらにクソに仕上げる原因が「録音」にある。
とにかく、音がクソ。
なんでそんなに!?ってくらい録音が酷い。
誇張した言い方だとおもうのならば、皆さん是非どこぞのストアでサントラを視聴してみると良い。ンコイ登場シーンのラップなんて聞くに堪えない。
おそらく原因は狭いセットの中で録音したからであろう。
セット全体に響いた生声が実に下手に聞こえる要因となって聞こえるのだ。声も芯を捉えておらず、まるで低スペックのレコーダーで録音したんですか?状態。
せめてアフレコをするべきだと。と思っていたらちゃんとアフレコしてるところもある。経緯についてはよくわからないが、とにかくこの程度の音質で全国放映できてしまうのか日本よ。自主制作映画だってもうちょい気を配るぜ。って感じ。
以上の二点をふまえて二回目の鑑賞。
すると所見であれほど盛り上がってみることができた映画は、実に浅くインスタント的な楽しさだけが残る、軽い映画になっていた。
よく、原作ありの映画作品について「こんなの原作と違う。作風を全く踏襲していない」等と批判されることはあるのだけれど、今回の場合園子温が原作をじっくり料理して脚色した感が非常に薄い。
おそらく園監督はバトルラップミュージカルがやりたかったのではないだろうか。そのために東京トライブを取り上げたのではないだろうか。
ミュージカルと言う表面的な手法だけでなく、中身までぐちゃぐちゃに練り上げて脚本がなくともキャラが自立する映画であったなら。と3000円払った私は涙ぐんでから最後にまとめる。
以上、
TOKYO TRIBEでした。
最終感想、
「見なくてよし!!!!」
批評:GODZILLA
はい、ハリウッドゴジラSecondシーズン見てきました。
しばらく見ないうちに向こうのゴジラは太ったね。前は魚が主食だったけど、今回はなんか放射能食うらしいね。炭水化物を多く摂取したわけじゃないのに太るんだね。
と、今回はもちろん以前のゴジラとは全くの別物として制作されたようで、色んな記事を読むたびに「前回の(笑)」みたいに引き合いに出されててなんかかわいそう。前は前で好きだったけどね。
じゃあ今回は何が違うのかと言いますと、単純に日本のゴジラ様のリスペクトがちゃんと意識されたつくりになってました。
まず本当にゴジラがなかなか出てこない。おっせーよ!出てくるまでに軽くスヤスヤしました。日本の一作目のゴジラも姿を現すまでが本当に長い。
今回は日本でのゴジラ映画が終了してしまい、半ばファンを楽しませるための映画にもなっているので、とにかく本当にゴジラが姿を現すのをタメにタメてめっちゃ小出しにしてくる。
特に今回のゴジラで印象が強かったのが、一枚画的な表現でゴジラを見せてくる描写が非常に多いことに目がいきました。
①タメます、タメます、タメます・・
②・・はい!ゴジラどーーーーん!!!
③「ギャオーーーーーン!!」(決まったぜえええええ!)
④(余韻もなく即座に)その頃主人公は、
みたいな描き方が本当に多かった。
ゴジラ見たいファンなんて、そんなんどうでもいいからはやくゴジラを見せてくれ!動きを見せてくれ!戦いを見せてくれ!って感じですので、物語ラストの戦闘シーンにたどり着くまでは本当にフラストレーションが溜まる作品になっております。
それでも耐えられたのであるとすれば、圧巻のゴジラの存在感や臨場感、そこに圧倒的に存在する「我らがゴジラ様」のかっちょ良い一枚画のクオリティが高かったからかと思います。
・・・と、批評じゃなくなってきたところで軌道修正。この映画がいかにクソだったかをお伝えするのがこの日記の役割です。
何がクソだったかその1
やっぱ戦闘シーンが少ない。もうそれは圧倒的に。特にゴジラにスポットライトがあたるシーンなんて本当に少ない。
既に我々がゴジラを知っているという程で本編を展開してくるので、制作者側からの「ゴジラ見たいだろう?見たいだろう?・・ほーれ、しっぽだよ。すごいCGでしょう?まだ全体は見せないよ。・・・ほーれ、足だよ。すごい臨場感でしょ?まだ全体は見せないよ」
みたいな感じが終始続きます。これゴジラにさほど興味がない人が見たら本当にただのダレてるクソ映画だよ。
戦闘シーンが少ないと書きましたが、怪物が町をただ歩くだけのシーンやら津波が押し寄せてくるだけのシーンも目白押し。それで一回我慢してねゴジラもう少し先に出てくるから、と言わんばかりのゴリ押しな迫力で(押し付けがましい迫力で)、自然災害怖いねえ〜、ひいては自然災害的な象徴であるゴジラってやばいねえ〜みたいな感じで視聴者をとことん誤摩化してきます。
津波のシーンがすごかったし原因としてはゴジラが海でモゴモゴしたから津波がきたので、「ゴジラすげえ」に帰結してしまいがちだけど、
いやいや、それただの津波だからね。だまされねえぞ。ゴジラはよ。
な状態でした。
何がクソだったかその2
実に説得力のない存在感(スケール)で描かれる物語。
わりと世界(主に太平洋間)をゴジラは自由に行き来します。そして今回はムートーという言わばゴジラを主役に引き立てるための悪者怪獣も2体出てきます。そこらへんのクソ高いビルをあっさり追い抜かす平均身長のこいつら三体が、太平洋間をザックザックと突き進むのに人間たちは基本的に気付きません。なんでやねん。
物語は15年前から始まっていた、というような冒頭のシーンから始まり、洞窟内にて超巨大な生き物の骨を発見するのですがこれは世界に公表されず。
その後も現代になり、怪獣が大暴れを始めるのですがなかなか情報が普通の人間に回ってこない。少なくとも嘘と言われようとも情報って漏れるものだと思うのですが(しかもあんな巨大な生き物がコソコソせず堂々と海を渡っているのだから)、なぜか人間は気付かない。二体目のメスムートーが放射性廃棄物処理場から尋常じゃない大脱出をしたときでさえ、軍隊さんが調べに来るまで全くわかりませんでした状態。地元のカジノの人間たちも、ムートーの足が天井をぶっ壊すまではすぐ外を歩いていても全く気付きません。
どうなってんだこの世界。
故に、いかにゴジラや津波やムートーや壊れていくビルを見せつけられても、ああこれはこの空想のお話の中での出来事なんだなあ〜感が拭いきれず、自然災害的な免れられない脅威みたいのがまるで説得力なくなっていたなあと思いました。
何がクソだったかその3
物語の最終的なオチ
ゴジラは二体のムートーを倒して海に帰ってゆき、人々はわああ!ってなっておしまい。
なんでやねん。
まず、渡辺謙演じるDr.芹沢なんですが、物語の中盤らへんでゴジラのことを「自然」と表現し、自然は常に均衡を保とうとする、自然を支配して人間はこの世界の王になったが実際はその逆だ、というようなことを言います。なので、ゴジラはきっとムートーを都合よく倒してくれるかもよ(もしかしたら味方なんじゃね的な含みを持つ言い方)、って言います。
なんでだ。
どこからくるんだその発言の自信は。
いや、結果的にはそうだったんだけども、それって日本映画のゴジラを見慣れてる人しかわからないやつなのでは?
なぜだか終始ゴジラとムートーを別次元程の感覚で差別化するんですね。この映画は。
パシフィックリムみたいに全部「カイジュウ」って一括りにするならわかるのだが、渡辺謙も何故か「ゴジラ」だけは日本語の発音でリスペクトしてるし、おいおい制作者が見えてるぞ、ってな具合でした。
少し話がズレましたが、以上のことより、物語の最後にムートーを倒したゴジラが海に帰っていって万歳ってのは都合が良すぎるよなあ、とめちゃくちゃ思った。
十数年前はあんだけ殺そうと水爆実験までしてやっきになってたのに、なんでか放し飼い方針に変更したんですね。はあ〜。
まあそんなこんなで、ゴジラリスペクトし過ぎて話がややふわふわした立ち方(妙に現実感のない立ち方)をしているなと感じました。
怪獣映画だし映画館で見なきゃ損だぜ、って思って見に行きましたが
「普通に家でDVD借りて見ればいいよ」
だってそんな戦闘シーンないし。
ゴジラファンだけ見に行けばいいんじゃないかな。あとはとくにナシ。宇宙戦争だって結局家のテレビで見ても満足できんだからゴジラも一緒でしょ!
ということで今回は「GODZILLA」でした!
最終感想
「見なくてよし!!」
批評:ダーク・シャドウ
ということで、はい。
ダーク・シャドウを見ました。
ティム・バートン監督とジョニー・デップのいつものコンビですね。
俺は個人的にティム・バートンの作品は、そんなには見ていない、てかナイトメアビフォアクリスマスとアリスインワンダーランドと、あとなんか、うんそんだけしか見てないんだけど。
まぁ、ぶっちゃけそこまで好きな映画ではない。んですよ。
はい。ダーク・シャドウ。
まず主人公のジョニーデップ扮するバーナバス・コリンズの過去の設定とか独白から始まります。
で、それが終わると、ンマー定番。
舞台となるコリンズ家に、家庭教師のバイトのために、ヴィクトリア・ウィンターズという名の女性がね。くるわけですよ。役者はベラ・ヒースコート。
で、まー、
最初ジョニーデップが封印されてんだけど復活しまして、(ジョニーを昔愛した魔女が自分の愛が報われないってんでヴァンパイアの呪いをかけて封印しちゃうのね。この魔女は今も生きていて、敵キャラ)
で元々彼はコリンズの人間なんでやはりジョニーもコリンズ家に戻ってくると。
で、役者と舞台が一通り揃って物語がここでようやく始まったよ。
まー、ここまできて
俺も何回か予告編とか見てたから、
この後廃れていたコリンズ家の稼業を復興しようとジョニーが奮闘?するんだけども、
まぁ、奮闘して最終的には家が元に戻るなり目標を改めて見つけるなりこれから頑張ろうって心持ちにコリンズ家の面々がなるなり、
とにかく!何かしらのゴールがあって、んで家族は大事!(みたいなコンセプトも予告編にあったような気がする)な、感じのストーリーになってくのかな。と。
あぁ、なるほど、これは典型的なドラえもんタイプの展開だ!って納得してた。わけですよ。
だよね?ドラえもんが未来から野比家にきて何かと色々問題が起きたりするけど最後はのび太もドラも成長したりしていい感じにおしまい。みたいな。
とりあえずここまではダーク・シャドウも全く展開同じやんね。ね。
と思っていたら大違い。
いや、むしろ全然違う。
話だいぶ吹っ飛ぶけど、
いやオチ言っちゃうけど、最後アレだからね。
コリンズ家まるごとごうごう燃え盛ってむしろ今まで以上に生き苦しくなるかんね。
それで話終わっちゃうかんね。
しかも前半あれだけジョニーが言いまくってた、家族は大事論。
はい。ラストシーン。ジョニーはそんな燃え盛るコリンズ家ほっぽり出して、彼は彼で好きな女とちゃっかりいい感じにチューしておしまいだかんね。
え!!?
えええ!!!!??
うそやん!
何を自分だけよろしくやってんのよ。
と。
ほんとコリンズ家の人達はあの後どうなっちゃったんだよ!オイ!ジョニー!!
ていう不満。
が、その1。
まだまだあるぜ!
はい、つぎね。
全体のストーリーの構成。
前半は非常によくまとまっていたと思うテンポや展開もわかりやすかったし。
要約するならば、みんな役者が揃って、稼業を復興させようぜってジョニーが言い出して、家族たちが頑張り始めて、んで小さいながらもとりあえず自分たちの工場をつくり、(稼業は水産業なんだけど)漁師とかとも契約を結び、と
なかなかいいテンポで話が進んでいくわけですね。
で、大きく見たこのデカイ一つのシークエンスは、総合的に見るとまぁ面白いは面白いんだが、
最初に出てきたヴィクトリアが全く、
全く。出てこない。
え?あれ?確かヴィクトリアってヒロイン的ポジションだよね!?最後ジョニーとくっつくよね!?あれ?あの家庭教師どこにいったの?ていうか気になってはいたけど家庭教師ってなに?いつそんなシーンが出るの?え、そんなシーンないよ!家庭教師って設定はなんなの?
とね。
こんな感じで、もしかしたらちゃんとした意味があるのかもしれないけれど
この映画はいかんせん省略の仕方が雑なのがいろんなところで目立つ。
他にもコリンズ家のお父さんが浮気かなんかで家を出て行くエピソードがあるんだけども、まぁ、最後絶対戻ってくんだろうなーと思ってたらそうじゃない!
じゃあ、あのおっさんが家にいた理由は、家を出てった理由はなんなわけ!?ヘーイ!!
それでもまだ第一シークエンスはわかりやすかった方でして。
そしてそれに続くデカイシークエンスの第二シークエンス。
ここからはもう本当に酷い。
まず、第一シークエンスで必死こいて作った皆の工場、これが全く機能を果たしていない!もうほんと全く出てきすらしない!
そしてヴィクトリアに恋をしたジョニーのラブストーリーが突然始まるのよ。
本当一つ一つのエピソードがまとまりのない第二シークエンスを辛うじてまとめていたのが、魔女の存在。
そう、あの200年まえにジョニーをヴァンパイアにする呪いをかけて、今現在も人間に混じって生きているあの魔女ね。
あの魔女が、ジョニーが復活すると知るやいなや、ホンットにすぐ真っ先にやってくるのよ。
で、相変わらずジョニーのこと好きだから誘惑とかするわけ。で、ジョニーはヴィクトリアが好きだから、それを断わるんよ。でも魔女はキスとかしてくるのさ。
するとね、やめろとか言いつつジョニー、抵抗しないんですよ。それどころか魔女が身体の関係を要求してきたら応えるし、それなのに終わったあとはもう二度とこんなことはしないし君のことは好きになれない。とか言うわけですよ。
はぁあああ…
どの口が言うんだよ、ジョニーおい!
それで未だに未練のある魔女はいつまで経っても自分を好きになってくれないジョニーに対して、好きな反面憎しみを抱えていたりもするわけで。
コリンズ家の復興の邪魔とかもしてくるわけで。
んで、物語の最終的にはジョニーと魔女が戦って魔女は負けて死んでしまうんだよね。
でもさ。
ちがくね、なんか。
魔女さ、最後死ぬ時
涙ポロポロこぼしながら死んでいくんだよ。
私とあなたならお互いに化け物通しうまくやっていける。私とあなたなら幸せになれる。って言って生き絶えてくの。その間、ジョニーは呆然と見つめるだけで返事もしてあげない。
この魔女がさ、俺実はこの映画見てて一番好きだったかもしんない。
純粋に愛してたけどずっと報われなくて恨んで憎しんでそしてそのまま死んでしまう。
しかもそれをボロッボロの身体で涙ながらに最後訴えかけてくんだよ
泣くわ!俺が!!
そして何してんだジョニー、お前バカヤロー!!!!
と。
話がたびたび脱線してしまうが、
この魔女のおかげである意味シークエンスにギリギリまとまりがあったのかなー、と。思いました。
他にもねー、
処理しきれてない設定とか謎のキャラとかいっぱいあったんだよね。
ヴァンパイアの日光発火しかり洗脳しかりお父さんの存在しかり。
博士の存在もなんか危ういと感じたし(あれは次回作があるという伏線なんだろうか)、最後の戦闘シーンも酷かったな。
前半と最後の戦闘シーンとのギャップの激しさ。
もはや怪獣大戦争だったかんね。
ヴァンパイアと魔女の戦いと思ってたらいきなり娘(クロエ・グレース)が実はオオカミ人間でしたーとか、最後魔女に止めを刺すのはジョニーじゃなくて女の幽霊とか。もう、わっしょいわっしょいし過ぎだろ。お祭り騒ぎだったじゃん。んであとからとって付けたように、実は~だったのよ。とかドヤ顔で言われても、そんなんもはや後付やんとか思うし。
そう!てか、話がね。
ストーリーが見ててすげー思ったんだけど、話の流れがなんか気持ち悪い。
まず、1をやったから次は2、2をやっちゃったから次は3やんなきゃ。みたいなね、なんて言うんだろう。ある出来事を起こしたので、それによってこういう問題がストーリーに生じちゃうからそれを処理するために次はこういうエピソードを持ってきて、んでそこのエピソードの処理のためにまた次はこういうエピソードを持ってきてー、みたいな。
全体的にストーリーに必然性とか自然性を感じられなかったんだよね。ほとんど、問題処理のために話が進んで行く、的な。言い訳がましく聞こえる映像ばっかり見続けさせられる感じがした。
はい。
ということでねー。
さんざん言ったねー。
長かったねー。
ホントはまだまだ言いたいこともあるけど文章にすんのけっこうめんどくさいんでこんなところでやめます。
総評すると、
ダーク・シャドウ
まぁ、非常に構成とか見せ方、演出かな?が所々で引っかかることが多く、どうしても最後まで共感を持って見るということができなかったです。
多分見終わってどことなく、不満を抱えた人は多くがそこにあるんじゃないかと思う。
というわけでね、
これにてダークシャドウ批評終わり!
最終感想
「見なくて良し!!!!」
批評:アナと雪の女王(後編)
前回さんざん言ったアナ雪後編。
というか補足などなど。
一つ訂正で、
前回の前編でオラフはなんで復活したんや問題が、どうやらエルサがレリゴってる時に再生された描写があったらしいです。ちゃんと見てなかったわ。申し訳ありません。
さてさて、前編ではこの物語を姉妹愛、家族愛の物語だと言いました。
ラストの落ちに繋がるこのネタは、氷付けになったアナが、エルサの涙で蘇るというところからくるもの。
今までのプリンセスネタの王道な落ちである「王子様のキス」を封印し、
そもそも愛って異性へのloveだけが意味じゃないんだぜ!と主張する今までは見なかった解釈。
故にメディアはこれを取り上げるに当たってよってたかって姉妹愛!家族愛!新しい落とし方!とやんややんや言うわけです。
まあそこに対しては特にいうことはない。しいて言えば俺は映画見たとき、それが愛の力で復活したんだ、とは解釈できなかった。
え?なに?何が起こったの?状態。
あとで聞いたらアレは愛の力なのよって話。
…あらそうなんですか。
そのシーンに関してはもっとタメがあってもよかった。
あっさりとアナが復活してしまった。
という意見が周りには多いのですが、
とりあえず言えることは
読み取り手が、説得力のある落とし方であると解釈するには物足りなかったのは確かなオチの描写である。
ということ。
さて、ですがね。
ぶっちゃけあれは監督の完全なるスペックオーバーなわけでして、本当に言いたいことが相手に伝わりづらい作品になっている。というのがアナ雪賛派の方の意見です。
これ以後、その興味深い話をしてくれた方の文章のほぼ抜粋になるのですが、これを見ると納得できる点も多いです。以下の文ではラプンツェルも比較例に出しております。
ちなみに皆さんはラプンツェル好きですか??
『アナ雪は一体なんの話だったのか。。。』
「たいていアナ雪があんまりという人はラプンツェルを好むひとなんだけど、ストーリー的な面で行くと、大きな違いは
・ラプンツェルの「家族からの愛のない寂しい女の子が結婚相手を見つけることでハッピーエンドになる」と
・「家族からの愛がない(と思いこんでる)寂しい女の子(アナ)が家族からの愛を受ける、家族へ愛を捧げる、ことでハッピーエンド(結婚までいかなかったのでクリストフは無視)」又は「初めから家族に愛を捧げていたのに理解されていなかった女の人(エルサ)が捧げた愛を家族に理解してもらうことでハッピーエンド」
というのがあってだな。
とても極論でいくと自分が生きるために必要な愛が無い場合その隙間を埋めるのが恋、つまり運命の人(true love)であると思っているのがラプンツェル。
自分が生きるために必要な愛が無い場合、家族愛でもその隙間を埋められると思ってるのがアナ雪。
英語原文の話をすると、true loveというのは今まで英語の物語ではずっと「運命の人、結婚相手、つまり幸せを保証してくれる人」という意味で使われていた。日本語訳だとチガウんだけど、アメリカは語彙力がないのでtrue loveといえばそういう意味だったのだとか。
だからアナ雪でトロール達が、氷を溶かすにはtrue loveが必要だと聞いて、クリストフのことだと騒いだ。でもオラフが「アナのためなら溶けても良い」と言ったのを聞いて、アナはtrue loveとは自己犠牲を伴うくらいの愛だと理解し、自己犠牲のうえエルサを守り、氷が溶けた。その時溶けたのをみてオラフが「true love」と呟いて、アナがBecause I love you とエルサに言う。
つまり寂しい心を埋める愛=true love=別に異性の結婚相手である必要はないんじゃね=家族愛でもいいやん
という話なのだそう。
まだ続く↓
正直言うとあれは家族愛というより自己犠牲愛の話だと思う。オラフの溶けてもいいよに作品の全てが反映されてて、家族愛だけの話であればオラフの愛で溶けてもいいし、エルサを大切に思った時点で溶けて然るべきだと思うんだよね。エルサを助けるためにアナが自己犠牲を行うことで溶けたのだから、エルサがずっと自分の幸せよりアナを傷つけないことを優先していたように自己犠牲を行う愛こそtrue loveであるというのが監督達の意図なんじゃないかな。
二人の監督のうちの一人はターザンの監督で、実際に息子を亡くしてるし、ターザンではゴリラの母親が拾った人間の子供を殺された自分のゴリラの子供の変わりに育てるという話であったし、多分監督はそこまで家族愛のつもりはなかったと思う。
それより親が死んだ時でもなお妹を守るために大切な妹に会わないという選択をさせたかったし、それを肯定したかったんじゃないかな。」
以上です。
なるほど、確かにそうなのか!って思うことありますね。
原作読んだしアレは~~な表現なんだよね、
とか言う知ったかぶり野郎より断然説得力ある話だと俺は思いました。
で、最終的にこの作品まとめると
「ちゃんと言いたいことあったようだしそれを表現するクオリティもさながらなのに
わかりづらいわ!!!!!」
ですな。これにつきる。
「伝わりやすさ」
これ大事だよね。
結局ほんとのところはなにが意図されていたのかされていなかったけどメディアに取り上げられてしまったのかは、監督に聞かないとわからないし確実なことは言えないけれど。
まあでも、もちょっとわかりやすいとバカにも楽しめたのかな、って思いますわ。
ハイ!
これにてアナ雪批評終わり!
最終感想
「見なくて良し!!!!」
批評:アナと雪の女王(前編)
きちんと文書でまとめるとこまでした方が作品に対して整理がつくかな、とか。
まあ、優等生的な理由は以上にしておいて、毎回各作品をボッコボコに批評するだけですわ。
さて、記念すべき第一回目は巷で有名、というか地球上で有名なアナと雪の女王(以後、アナ雪と略す)。
もうどこもかしこも、レリゴーレリゴーうるせーよ。中にはレディゴーとか間違って歌ってるやつもいるし、なんなのバカなの。これに関してはマジで回数制限とか設けて、一人6回以上歌ったら死刑とかにするべきだと思うよ。いや本気で。
さて、本題本題。
とりあえず冒頭からいきなり気に食わない。あのナレーション的な流れの冒頭ミニ物語ね。とにかくこのアナ雪という作品は製作者側からの気持ちの押し付けが激しい。で且つ、それが下手。それらに感情を乗せることができればアナ雪信者に、それがわからなければアンチに。と言った感じで鑑賞者を真っ二つに分ける作品。
あんだけ世界で売れまくって興行収入がどうたらこうたら、とか言ってるわりに、私の周りは批判派が多いです。ようするに人間、ある程度話題になるとなんとなく自分もそれに乗っかんなきゃってことになるのよね。それが世界規模で起きてるだけで、ストーリーはくそみてえにわかりにくいクソ映画です。
さて、中々本編の話をできてないけどまず冒頭ね。
一瞬話がズレるけど、ファーストシーンはどう考えてもレ・ミゼラブルの冒頭。おっさんたちがウォイウォイ歌いながら仕事するやつね。音楽にあわせて氷が綺麗に切れていくのはいいのだけど、あれ場所によってはビビるほどグシャリと砕けてて、なになにその世界の氷の硬度ってどういうカンジになってるの?状態。
CGアニメはリアルに近付けたいのかアニメをやりたいのかどっちかにしろっつーとこですな。
で冒頭の、早巻きでお送りされるあらすじシークエンス。これが酷い。
アナ雪は映画を見る前から色んなメディアに取り上げられまくっててどうやら姉妹の愛を描こうとしてるらしいんだが、何としてでも姉妹を離れ離れにさせお涙頂戴の設定にする為に製作者陣が全力で彼女たちを不幸に追いやる。
どっから現れたのか(ディズニーだから普通でしょ?とかだったら腹立つわ)突然なんの脈略もなく魔法を使える姉が出てくる。結局本編通して魔法が使える人間はコイツだけ。市民は始めは魔法に恐怖し驚いてるのにラストには誰一人怖がることなく楽しげに笑いあってる。お前らの世界の中での魔法というものの価値観ってなんなんだよ。え!?
普通なの?異常なの?
そこの設定があやふやなままなのが実に腹立たしい。
原作がどうなってんのか知らんが、俺は読んでねえし知らねえ!そして読めとも言われてねえ!
だから真っ白の状態の視聴者納得させるところから丁寧に描けよ!アホか!
と思うわけですわ。
姉妹を引き離してからは、その状態を何年も継続させるため(なんのためだよ)に用無しになった両親すぐに殺しちゃうのはわりと本気で引きました。
これ前やってたラプンツェルの時からそうなんだけど、なんなの?平気で殺人オッケーにでもなったんですかねディズニーは。人の命軽んじて良くなったんだね。今回のはまさに殺しときゃよくね?っつって殺したでしょ絶対。やってらんねえ。
で、そのまま数年たちましたな。国王も王女も居なくて国を収めることはできない女の子二人しかいない王国が、なんでその後数年も持ったのかが聞きたい。なんで?ねえ、なんで?
まあ、あれよね。妥当に考えるなら誰かが支援してくれたり家臣が支えてくれたりとかでしょうね。うん。
…じゃあそいつらどこ?どこにいるの?いたの?描写あったの?ねえ。
ないでしょ。
どうやってあの国は持ちこたえていたんでしょうね。ふい~。
ほんとに都合良いとこしか描かない。さすがに端折ってもいいでしょ、とは言うなよ。だってダメだろ。
あらすじ終わって物語序盤。
アナ、ハンスと結婚を決意。
じゃないでしょ。
即日決定のラブマシーンてなんなの。
いやまあお姫様ものなんてだいたい感覚で惹かれあってゆくゆく結婚とかはわかるよ、現実にはあり得んだろうがアニメだしお姫様だしわかるよ。
でも即日結婚決定ってなんやねん。欲求不満か。流石にそれは行きすぎなのでは?って長男の俺は思ったよ。
エルサもそう思ったらしいね。そりゃ怒るわ。走って山籠りもしたくなるわ。
アナよ。雪だるまつくーろーとか言って姉好き描写するのは良いけど、なぜそこで姉に配慮できなかったのだ。アナよ。ちょっと常識ないのね。
で、ねーちゃん逃げちゃったから、追いかけるアナなんだけど、そこでまたも、国を収める二人が国から居なくなってしまう。じゃあその間はハンスお願いね、ってなんでやねん。
なぜハンス!!なぜ、ハーーーーンス!!
いや、正確には、なぜハンスをチョイスしたのか、というよりもどちらかと言うと、
なぜ家臣に任せなかったのか
これだろ。
だって戴冠式するまでの数年は(おそらく)家臣たちがキリモリしてきてくれたんでしょ?流石に彼らの描写を端折ったとしても、アナの中に家臣たちに任せようという考えが起こらなかったのは本当に謎。
君は大人になるまで誰の世話になってきたの?
会えもしなかったエルサとしか交流がらなかったの?
え?
まあ、いいよ。
ハンスに任せちゃったもんは仕方が無い。もういいよ。
わがままな姫二人はこれで自国から脱出しました。さっき知り合ったばかりのイケメンに国の全権指揮を任せて。
家臣についてもう一つだけ書いとくと、最後アナが死にましたってハンスに伝えられてがっくしきてた家臣たちは、
はい。
これ、やっぱ最後まで通して思ったのは、
この姉妹は王女であるという設定が物語全体を通して邪魔をし過ぎてるということ。プリンセスって設定がゆえに、行動や考えがより稚拙に見えてしまう。ほんと、田舎娘の話とかだったら良かったんじゃね?
何もかも、物語の装飾が派手なためにアラが目立つ。